| 第一章:労働組合運動との出会い 1971年4月中旬、コマザワボウ本社内の、とある部署の朝の光景である。 机に向かって、一所懸命に算盤と戦う新入社員中村修次郎の姿があったが、その背後には、あの時、豆鉄砲を食らった鳩の様だった藤田豊松が控えている。 そうである、なんと修次郎は、本社人事部人事課の配属となったのである。 近江商人たる駒沢徳之助は、数字に強くなくてはならないという信念を持っていた。 当時、電卓が流行しだしていたのだが、 「電卓を使うと数字に弱くなる」 という彼の鶴の一声から、電卓は出来るだけ使用しないようにとの暗黙の了解が出来ていたのだ。 その上、各職場の朝礼が終わると、社内放送に合せて10分間の読み上げ算試験が行われていたのである。 修次郎にとって算盤という存在は、物心がついて以降、まともに習った記憶がない程に縁遠い物であった。 小学校時代にも、ランドセルにアルマイト製の食器を入れた給食袋や上履き袋をぶら下げて通学した記憶はあるのだが、算盤袋は全く思い出せない。 職場は皆、慣れたもので、パチパチとリズムよく音を叩てて算盤球を弾く中、彼一人だけ悪戦苦闘する、当に朝の地獄の10分間であった。 因みに、令和の習い事として算盤が算盤人気が復活しているそうで、記憶力と集中力を高め、中学受験対策としても評価されているとの事である。 現在も交流の続いている後輩の青田恒博は定年退職後に縁あって全国展開している珠算教室に再就職し、今では地元で校長として張り切って忙しい日々を送っている。 約半世紀を経て、徳之助の信念は間違っていなかった事が実証されている様だ。 「認知症予防にもなりますから、入会されませんか」 彼と顔を合わす度に勧誘されるのであるが、算盤の練習と精紡の糸繋ぎだけは二度と御免被りたいと願う修次郎であった。 ここで、この年4月1日にコマザワボウ創業の地である彦根工場にて行われた入社式にと話しが戻ることとなる。 新入社員宛に前日に集合する様に通知が届いており、修次郎も大きな希望と微かな不安を抱きながら前日の夕刻に工場の門を潜ったのであるが、門衛の説明のまま狭い路地を進んだ先に古びた木造建築を目にした途端、一気に希望と不安の比率が逆転してしまったのである。 当に人権闘争時代時代の遺物である、今は使用されていない古い男子寄宿舎が待ち受けていたのである。 丁度この頃、1968年から74年に掛けて、各工場で鉄筋コンクリート製の新しい寄宿舎が建設中であったのだが。 総勢40数名の新入社員達は、定員は8人か10人程度の広さの部屋に割り振られ、殺風景な空間に皆一応に不安な心境になり、中には、もうこのまま帰りたいと言い出す者まで現れる始末であった。 それでも、若者の集まりである。互いの故郷の話しをする等して打ち解けて行き、翌朝には元気な顔で全員揃って、無事入社式が執り行われたのである。 その後半月程の新入社員教育を受けたのであるが、当時の事を修次郎は殆ど思い出せない。 只、工場の大きさと若い女子従業員の数の多さに圧倒され、食堂の広さと料理メニューの良さにも驚いた。 学生時代は下宿生活であったし、実は、同じ様に中卒の女子従業員が中心の縫製工場で長期アルバイトの経験があったのだが、その時の食事事情との間に大きな差を感じた。同じ繊維関連工場でも、福利厚生面で大企業と中小企業とでは、これ程の差があるのかと実感したのである。 紡績工場についてご存じの方は少ないと思われるので、まずは簡単に説明しておくことと致しましょうか。 その工程は、扱う素材や繊維長等で若干の違いがあるが、その中で、彦根工場は2インチ紡と呼ばれる化合繊紡績工場であった。 まず硬く梱包された原綿を一本一本の繊維にバラバラに解す混打綿工程から繊維の方向を揃えるリュウ棉工程を経てスライバーと呼ばれる長い帯状にする練条工程へ、それに軽く撚りを掛けながら、一定の太さの粗糸と呼ばれる状態にする粗紡工程と流れ、その後精紡工程で、強い撚りを掛けながら引き伸ばし細い糸にして細いボビンに巻き取り、最後にワインダーと呼ばれる機会を使って、複数のボビンの糸を繋ぎ合せて一定のサイズのチーズ状態に巻き取る仕上げ工程と流れて行く、この間、約一週間を要する長い工程である。 現場実習では一通りの工程を体験するのだが、その中の精紡工程で、切れた糸繋ぎが出来なくて恥を掻いた記憶だけは鮮明に残っている。 因みに、紡績の規模を表す垂と呼ばれるスピンドルは、精紡機1台に付き片面200本、両面で400本に達するのであるが、これに空のボビンを仕掛け、一定量になると一斉に抜き取りながら新しいボビンと差し替えて行くという大変な作業であり、ある意味、紡績工程の中で花形的な存在であると言えなくもない。 が、強く引っ張って細い糸にしてスピンドルのボビンに高速で巻き取ってゆくのだから、当然ながら頻繁に切れる事が多く、その度に、膝を使ってブレーキペダルを操り、そのスピンドルだけ回転を止め、糸を繋いで又動かすのである。 そんな精紡工程での修次郎の実習状況はというと、隣の垂で指を擦り剝いたり等々、散々な悪戦苦闘振りだった。 上から送られてくる粗糸とボビンに巻き上がった糸の切れた部分を合せ、軽く捻りながらスピンドルのブレーキを外して再び回転させるのだが、このタイミングが上手く掴めない。 「こんな不器用な人は始めてだわ」 首から笛をぶら下げた、組長だか班長だったか、指導係の若い女子従業員の呆れかえった様な笑顔が未だに忘れられない。 又、この時は労使関係についての知識が殆ど無かったので、何故?と不思議に感じたのだが、新入社員教育のカリキュラムに労働組合の時間という物が組み込まれていて、その時間の中で聞かされたのが、人権闘争と言われた労働争議の話しであり、観せられたのが、その記録映画である「立ち上がる女子労働者」だった。 実は、大学入学時のオリエンテーション期間中に、彼は偶然にも人権闘争の講義は受けていたのであるが、しかし、この時は小説の中の遠い昔の話し位にしか捉えられていなかった。この時のカリキュラムの中にミニゼミと言われる授業があったのだが、ここで何故か、憲法でも刑法でも民法でもなく、マイナーな労働法の岸田ゼミを選択したのである。いや、ひょっとすると、何法にするか迷っているうちに、もう岸田ゼミしか枠が残っていなかったのかも知れなかった。 「法は弱者を護り、強者を律する為にある。その運用において最も大切なのは、その法の趣旨を正しく理解することであり、決して、いたずらに細かい条文解釈に走ってはならない」 ミニゼミの担当で、当時新進気鋭の助教授だった岸田貞夫の発した第一声 この言葉だけは未だ、はっきりと記憶されている。 最近何かと話題になる「法律が時代の変化に追いついていけない」という見方が一般的になりつつある現状の法曹界及びそれを容認する形のマスコミ関係者に、今一度聞かせてやりたいと思う、今日この頃である。 が、いずれにしても、この出会いが、後々、修次郎がコマザワボウに入社して、労働組合運動に従事することとなる大きなターニングポイントになった事は間違いない事実であろう。 やがて、半月の研修を終えた最終日に赴任先の発表があり、翌日の午前中に大垣の綿紡績工場の見学を終えて現地解散となると、技術系工場勤務者は引き続き研修を受け、その他の者は各々の赴任地へと羽ばたいて行ったのである。 試用期間を終え正式に社員に採用されると同時にユニオンショップ制によって自動的にコマザワボウ労働組合の一員になった彼と労働組合運動の出会いは、その年のメーデーである。 当時は、労働者の祭典としてテレビニュースでも取り上げられる程、大いに盛り上がっていたものだが、総評系と同盟系との二つに分裂されたメーデーでもあった。 コマザワボウ労働組合は所属する上部団体がゼンセン同盟であるから、必然的に同盟系と言うことになる。 大阪北の梅田扇町公園でのメーデー集会後、市内のメイン通り御堂筋を南の難波まで練り歩くデモ行進でデビューを果たした時に、 「聞け万国の労働者・・・」とか「がんばろう、突上げる空に・・・」 定番となっていた労働歌と一緒に、なんと新入社員教育で覚えたてのコマザワボウ社歌を歌おうと言い出して、廻りから大笑いされた程に全く知識も関心もなかった彼が、後々、労働組合運動との関りを深めていく事となるのであるから、世の中は実に不思議なものである。 続く 表題TOPページに戻る 許可無く転写・複製・転記しないようにお願い致します。
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