続・絹と明察 

鵜舟のかがり火に揺らぐ幻の宴

序章 
入社試験社長面談と芸者

高知県の四万十川、静岡県の柿田川と共に日本三大清流と称されている長良川の美しい水面越には緑滴る金華山、その頂上では、今にも信長の天下布武の声が聞こえてきそうな岐阜城天守閣が眼下に360度拡がる濃尾平野を静かに見守っている。
「やはり、この風景は日本一だな」と久々に故郷の岐阜市を訪れた中村修次郎が一人感慨に浸っていると、
「丁度この目の前が総がらみの場所なんですよ」
いつの間にか傍らに佇んていた又姪の美津保が話し掛けてきた。

総がらみとは鵜飼の最終的な漁の事であり、六艘の鵜舟が川幅一杯に並んで鵜を浅瀬に追い込む、当に鵜飼のクライマックスシーンと言えるだろ。
鳥の鵜を巧みに操る川魚漁法である鵜飼の歴史は古く広く全国で行われていた様であるが、現在では十か所程度しか残っていない.。
その中でも、「岐阜と言えば長良川の鵜飼、鵜飼と言えば岐阜の長良川」と言われる程有名で、普段は禁漁区となっている御漁場が存在し、六名の鵜匠は宮内庁職員の身分となっている事等々皇室とも特別な関係にあり、長良川の鵜飼は別格と言っても過言ではないかもしれない。
又、「おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな」と芭蕉が句を詠んだ事でも知られている。
因みに、この句には鵜飼の始まりに関わる若き川魚漁師の悲しい民話に心打たれた芭蕉の想いが込められていると言われている。

今回は、亡き三姉の七回忌の法要の為、久し振りに帰郷した修次郎だが、美津保と声を交わすのは、三姉の葬儀以来である。
幼い頃から可愛がってくれた大叔母の死を悼み涙に暮れていた初々しい制服姿の女子高生が大学に進学し、今や和服姿もすっかり板に付いた女性になっている。
月日の経つのは実に速いものだなと痛感させられるのであった。

清流を挟んで北と南に両岸に、それぞれ三軒の旅館ホテルが建っているのだが、中でも今回法要後のお斎が施されたのは鵜匠直系で有名な老舗旅館であり、彼女がこの宿でアルバイトを始めたのが縁であった。

「一緒に鵜飼の観覧船に乗るという約束は、結局、一つも果たせなかったなあ」
一人静かに目を閉じると、いつしか夕闇の中で繰り広げるられる幽玄な鵜飼のシーンが浮かび上がるとともに、、色々な懐かしい思い出が蘇ってくるのであった。


「こんにちは、こんにちは」連日連夜ラジオが呑気に歌い続けていた1970年の初夏。
大阪市内のメイン通り御堂筋に面したオフィスビル街に本社を構えるコマザワボウ株式会社の伝統と気品溢れる応接室のソファーに学生服姿の身を沈め、緊張した面持ちの修次郎が人生最初で最後となる一度きりの入社試験社長面談に望んでいた。

彼とコマザワボウとの間には何か因縁めいた物が存在し、何度も切れかけた運命の赤い糸に導かれる様にして、この日を迎えたのである。
コマザワボウと言えば、人権闘争と呼ばれた労働争議で有名であるが、それも昭和から平成と足早に走り去り、令和も7年を迎えた今日、果たして如何程の人々の脳裏に浮かぶ事があるだろうか。

労働争議終結後、企業再建に向けて銀行支援による再建派と創業者駒沢家の間に確執が生まれ、そこには様々な思惑を持った桜紡績等の会社や岡野の様な個人も複雑に絡み合い、混迷を深めていた。
方や労働組合側でも、旧態の御用組合が復活し始め、そこに左翼系や政治団体等が接近し、会社の経営再建も絡み、大垣支部が真っ先に駒沢家自主再建支持を打ち出したことで、その他支部との間で分裂した時期もあった。
が、最終的には徳之助が社長に就任し、組合側も外部勢力を排除して、創業家による自主再建支持で纏まり、駒沢徳之助社長に拠る自主企業再建が順調に勧められ行くこととなる。

1956年には、加古川にスフ綿工場を新設し、1960年には各紡績工場内に定時制高校を開校され、1961年には二次製品への進出も行い、更に1964年にはニット婦人服の販売も開始したのである。
この様に、労働条件の改善と共に業績も順調に回復するにつれ、繊維の総合メーカーを目指して、1968年には社名を駒沢紡績からコマザワボウと改め、一定数の規模の新規学卒採用も始まり、その数も年々増加傾向にあったのである。

そして迎えた1970年。
この時、駒沢徳之助は満53歳であった。
「ところで、あなたは岐阜の出身ですが、地元の人は皆さん観覧船に乗って鵜飼を楽しんでおられのですか」
それまでのごく当たり障りのない質問から一転して想定外の言葉が飛び出して、修次郎は一瞬動揺したものの、間髪入れずに、
「いえ、地元の人は観覧船に乗ることは滅多に無いと思います。精々、時々川岸から観る程度で、案外、有名な観光地ってのは何処もそんなものではないでしょうか」
自身でも信じられない程、スラスラと言葉が出てきたのである。
駒沢紡績は岐阜県内に二つの紡績工場を有しており、社長の口から鵜飼の話が出ても決して不思議では無かったのだが。

彼が幼い頃から慣れ親しんだ鵜飼という言葉によって、今までピンと張り詰めていた緊張の糸が緩んだのであろうか、
「社長ご自身は観覧船に乗って鵜飼を御覧になったことはございますか」
何の抵抗もなく質問をしたのである。
「景気の良い頃は船の上で芸者を上げたものですよ、なあ、藤山君」
修次郎の問いに答えながら、隣にゆったりと構えていた人事部長藤山寛松に話しをふると、
「社長、いきなり何をいいだすんですか」
思わず身を乗り出して徳之助を見詰める、驚きを隠しきれない丸くて大きな愛嬌のある目が、その様に語り掛けていたのだが、
「羨ましいです。私も観覧船の上で芸者遊びがしたいものです。もし、御社に入社できたならば、社長のお供をして、観覧船で芸者遊びをしながら鵜飼見物を出来るように頑張らせて頂きます。
何ら悪びれることもなくピンと背筋を伸ばし、堂々と胸を張って口を開いた修次郎の口から発せられた言葉に追い打ちを掛けられ、一段と大きく見開かれて修次郎を見詰める顔は、当に鳩が豆鉄砲を食らったかのようで印象的であった。


その日の黄昏時、4畳半の下宿で寝転がりながら物思いに耽る修次郎の姿があった。
まあ、考えてみれば、たまたま就職課の掲示板を覗いたら、小さい頃から知っていた駒沢紡績の求人票が目に留まり、軽い気持ちで受験したまでの事だ。
実は、実母の実家が大垣市内にあり、小学生時代は、春、夏、冬の休みに入ると、直ぐに飛んで行って殆どの時間を過ごしたものであるが、それがなんと駒沢紡績大垣工場と同じ町内だったのである。

しかも、今回は書類選考の結果での不採用通知を受け取っていたのだが、直ぐに人事から「事務処理のミスで不採用通知を送ってしまったので、当日、書類をもって受験していただきたい」との電話連絡が入ったという経過もある。
今更という気もしたが、折角なので受験することとしたまでだと思えば諦めもつくのだが、人間って奴はそう簡単に割り切れるものでもない。

何故、面接試験の社長の前で、芸者なんて言葉が出てきてしまったのだろうか。
銀座の芸者から駒沢紡績の女子寮舎監に転身した菊乃の存在であろうか、はたまた、幼い頃、母から聞かされた、芸者と浮名を流した事もあるという大叔父の話しが俄かに蘇ったのかもしれない。
が、そもそも、何故、こちらから社長に質問をするなんて行為ができたのだろうか。
それまでの緊張した場が、俄かに和やかな雰囲気に感じられたのが、とても不思議でならなった。

それは社長の徳之助から醸し出され来たような気がするのだった。
前社長駒沢善次郎の弟であるから「社長は父親で従業員は子」だという家族型経営哲学を引き継いでいるのだろう。
だとすれば、あの面接の場で、修次郎に将来の子を感じ取っていたとしても決して不思議な話しではない。
確かに、あの一瞬、徳之助の眼鏡の奥の厳しい目が微笑んだのだ。
このことに一縷の望みを託しながら、いつしか浅い眠りへと誘われていくのであった。


やはり、運命の赤い糸は繋がっていたようで、目出度く採用内定通知を手にした修次郎が、友人と二人での東北一周旅行で学生時代最後の夏を満喫し終えると、それまで騒々しかった大阪万博も無事閉幕し、ようやく世間が落ち着きを取り戻し始めた晩秋の11月25日、
「自衛隊員よ、決起せよ」
下宿の洗濯機と一人戯れていた修次郎の傍らで携帯ラジオが突然けたたましく叫び出したのである。
いわゆる、三島事件の勃発である。

背景には、万博に浮かれていた裏で確実に動き始めていた日米同盟の強化と貿易摩擦に対する国民への警告もあったのではないかとも言われているが、それを修次郎は半年後の入社早々に実感させられることとなるのである。

続く


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