| 修次郎の入社当時、労働組合運動は労使協調路線へと確実に舵が切られつつあり、特に、官公労主体の総評と異なり民間企業中心の同盟系は如実であった。 そして、1981年11月の連合設立により、日本の労働組合運動の既成路線となる。 この労使協調の象徴的な存在が福利厚生の充実ではなかろうか。 これは、ある意味、両者ウインウインの関係でもあったと修次郎は考えている。 労働組合として経済運動の成果を可視化させるものがベースアップや一時金とするならば、生活や労働環境対策の成果を体感化させる事になり得るし、企業側からは、求人対策や定着率の向上効果が期待できる。 又、優れた福利厚生の元で従業員の労働意欲も高まれば自ずと生産性が向上し、当然利潤上昇が期待でき、これが従業員にも還元される筈であり、当に理想のトライアングルが出来上がると修次郎は考えている。 但し、度が過ぎると、組合は第二労務課と揶揄されたり、実質的に御用組合化する危険性を伴うのも事実であろう。 が、いずれにしても、福利厚生は企業の社会性から言っても必然であり、従業員の生活向上こそが求められる最大の社会性であることは間違いないであろう。 新入社員修次郎の主な業務として採用担当が任されていた。 多数を占める中卒女子社員の採用は各工場の事業場採用であり、それを本社労務課が統括していたので、人事課が直接関わることはなかった。 本社人事課としての職務は年に一度の学卒定期本社採用の男性社員と事業所としての本社女性社員の採用であるが、それ以外に女性職員の中途採用が頻繁に行われていたのである。 結婚退職者や転職組を含め、女性社員の入れ替わりが多く、特にキーパンチャーの採用が多かった。 当時世の中はドンドンと電子計算機が広まり、その需要が高まっていたのであろう。 コマザワボウも遅ればせながらという感じではあったが電算課と呼ばれ作業量が増えつつあった。 専用のテープにデータを打ち込んで、それを電算機に読み込ませる訳であるが、その作業者はキーパンチャーと呼ばれ、特殊技能者に認定されていたので、正社員ではなく嘱託社員として採用され、労働組合には加入していなかった。 管轄の職業安定所、略して職安には足繁く通わされ、時には管轄外となる大阪市内の職安に迄も手を拡げる程の時期さえあった。 その時、求人票に記載される内容で、各種社会保険完備と福利厚生充実の文字は常にセールスポイントの二本柱となっていた。 福利厚生施設としては、各事業所全て独身寮及び社宅が完備されており、又各工場には交流の場として厚生館なる物が存在し、職場の会合とか宴会等で利用され、組合活動でも利用されており、又、宿泊施設を兼ね備えて居たので、修次郎も各工場の全てでお世話になった事がある。 又、各工場には医務室があり、担当医が常勤していたのには驚かされた。 が、なんと言っても最大の特徴は工場敷地内に校舎が設けられた4年生の定時制高校学院制度であろう。 更には近隣の短大との連携の短大コースまで設けられていたのである。 教員の多くは嘱託委託採用者であったが、一部は正社員としても採用されており、同期では奥本と波多の二名が体育教師として採用されていた。 教師でありながら正社員であるという身分は微妙な立場に置かれ、特に定着という言葉が重くのしかかっていたという。 学院制度を定着の材料とされているのではないかと感じている生徒もいた様で、 「先生は会社側なんですか」 と問い掛けられて、返答に窮した場面も少なくなかった様である。 大阪市内の中心地に構える本社ビルでは取り巻く環境が異なるのであるから当然の事ではあるが、工場に比べれば施設的には目だつ物は無かった。 食堂はスペースとしては確保され外部業者で依託運営されていたが、他には卓球と囲碁将棋位であろうか、後は修次郎入社後に独身寮の裏庭にテニスコートが設営された程度であった。 健康保険組合の運営という形で三か所の保養所も有していた。 彦根の琵琶湖畔の家と伊勢志摩海の家、更に信州木曽駒高原の山荘を修次郎も何度か利用したことがあり、それぞれに想い出がある。 彦根工場での新入社員教育の打ち上げ会が行われたのが、琵琶湖畔の和光会館であった。 「どうして君が本社の人事で、俺が一番遠い富士宮工場の労務なんだ」 酔った勢いも手伝ってか、お道化たジュスチャーを交えて中山敬之が修次郎に絡んでいるが、少々悪ぶってみせても彼の人柄の良さは隠し切れていなかった。 実は、彼とは入社試験の時に妙な縁があったのである。 最終の健康診断の時、修次郎と彼の二人だけ尿が出なかったのであるが、 「水道水で増やそう」 修次郎はそう提案した、いや彼からすれば唆されたことになるだろう。 この結果は予想通りで、二人は再検査に呼び出され、なんとか合格することが出来たという経緯があったのだが、こんないい加減な男が人事課に配属されることに納得が行かなかったのであろう。 因みに、いい加減とはネガティブなイメージで使用される事が多いのだが、実は本来は良い加減というボジティブな言葉であり、例えば風呂の良い湯加減とか良い塩梅と言い換えればお解かり頂けるであろうか。 少なくとも修次郎はそう理解している。 この時、傍らで笑いながらグラスを傾ける飄々とした男が音川誠一である。 彼は彦根工場労務課に配属となったのであるが、その後、若くして東北の労務出張所長として各社が繰り広げる金の卵採用戦線の最前線を体験し、後々社長にまで昇り詰るのである。 以来、同期で集まると必ずこの話が出る事となるが、常に傍らで音川が笑っている。 今更ながらではあるが、もしあのまま不合格になっていたら二人の人生が大きく変わった訳だから、大変なことを仕出かしたたんだなと反省しきりではある。 又、運命の赤い糸の存在を再確認する事にもなったのであるが。 「貴様と俺とは同期の桜、同じコマザワボウの庭に咲く・・・・」 最後は全員で肩を組ながら替え歌を合唱してお開きとなったのであるが、まさかこの中から将来の社長が誕生するなんてことは誰も考えにも及ばなかったであろう。 志摩の海の家には入社時の夏に同期会で海水浴に出掛けた想い出がある。 当時、事業所採用者は3月16日が入社日となっていたので、一月程前に入社していた10数名の女子社員で同期会が結成されており、幹事役の石津真由子から修次郎に声が掛かったのである。そこで、本社に配属された他の4名に声を掛けたのであるが、浪人と留年を経験していて、やや年の離れた小山謙二には、 「ガキとは付き合えないな」 と一笑に付されてしまったことが鮮明に記憶されている。 夜の浜辺でファイアーを囲みながら、「想い出の渚」で幕を開けた大山とのミニコンサートは、最初で最後の有観客コンサートとなってしまった。 また、「いつまでも絶えることなく友達でいよう」と最後に皆で歌ったにもかかわらず、真由子が晩秋の木枯らしに吹かれて云ってしまった。 想い出深いこの二曲は今でも修次郎のカラオケレパートリーに入って入る。 真由子は秘書課に属していたのであるが、難しい人間関係と閉鎖的な職場の得意性に馴染めなかったのであろうか、彼女の退職を機に同期会は自然解消となってしまった。 世間でよく言われることであるが、しっかりした幹事役がいないと持続するのは難しい様である。 この時に、彼女から何かと相談を受けていながらも退職という最悪の事態を避けられなかったことに、個人的にも又一人事課員としも十分な職責を果たせなかったと後悔の念を抱くこととなる修次郎であった。 木曽駒山荘を最初に訪れたのは入社後数年経った春の事であった。 新入女子社員で労務課に配属された志摩万美子が、配属後直ぐに退社したいと言い出したのである。 時当に、金の卵の定着率を各工場間で競い合っていた時代。 その様な時に、肝心のお膝元である本社労務課で新入社員が一ケ月も持たずに退社なんてことにでもなったら一大事である。 そこで、労務課に在籍していた同期入社で津工場労務課に配属後に転勤してきた天宮憲明と二年先輩となる西山洋輔の若い二人により引き留工作として信州旅行が計画され、 「これは人事の責任でもあるから君も付き合え」 修次郎にも声が掛かったのである。 真由子の退職時に抱いた後悔の念もあり、彼は快く引き受け同行することにした。 ゴールデンウイークに、旧中山道の宿場町として人気のある妻籠宿と馬籠宿を訪れ、木曽駒山荘に一泊して、翌日には木曽川の景勝地寝覚ノ床まで脚を延ばし、最後に信州そばを食するというコースであった。 藤村記念館前と寝覚ノ床、それから有名な蕎麦店の前での集合写真が懐かしい。 旅行作戦が功を奏したのか否か、取り合えず退職を思い止まってくれたのであるが、念には念を入れてと言うことで、更に後輩の藤村勇とカップルにするという作戦迄計画実行されることとなった。 美しく生まれついた万美子はその外見に似合わない、べらんめえ娘であった。 親しい人にはタメ口であり、江戸言葉の「あたぼうよ」が口癖であったことから、いつしかアタ坊と呼ばれるようになっていた。 なずけ親は天宮であったが、彼はこの道のセンスに長けていて、この後次々とヒット作を生み出して社内を賑わしたのであるが、中でも最高の傑作は小池さんであろう。 あの赤塚ワールドの小池さんである。 以後、半世紀を過ぎた今も仲間内では依然として小池さんは小池さんであり、修次郎は本名が思い出せない。 藤村は山陰地方の工業高校建築科を卒業して入社以後、独学で一級建築士資格を取得した努力家であり、司法への路で早々に挫折した修次郎にとって、後輩ながら尊敬に値する人物であり、又人格者でもあった。 その後二人の関係は順調に進み、目出度くゴールインした。 今でも仲間との交流はあるのだが、相変わらずアタ坊は健在である。 「あの時私には彼がいたのに、余計なことして・・・」 冗談とも本気とも採れる様な表情でカミングアウトされると少々複雑な心境になってくるのであるが、今でも良い年齢を重ねたベストカップルだと思っている。 尚、この顛末にはオマケがあり、天宮と同行した労務課員の中田純美もカップルとなりゴールインするというおめでたい話しが続いたのである。 順美は、先輩社員中田克治の自慢の娘であった。 入社前に聞かされていた通りの未だ幼さを残す可愛くて育ちの良いお嬢さんって感じで、これまた天宮とはお似合いのカップルであった。 後々、二人は後輩社員たちの理想の夫婦像とされるのである。 この頃、様々な社内行事も盛んに行われていた。 大半が労使共催という型で、そこに健康保険組合から補助金が出るという仕組みであった。 ざっと上げるだけで、春の新入歓迎ハイキングに始まり、夏にはビヤパーティー、キャンプ、秋には運動会に味覚狩り、クリスマスパーティーそしてスキーバスである。 その上、コマザワリーグと命名された多種目に渡る大会が毎年される様になり、オイルショック迄、拡大傾向が続いたのであるが、何かにつけて修次郎にお声が掛かったのである。 更に、当時、本社総務課には若手の社員が在籍していなったこともあり、公式な会社行事にもお声が掛かかり、秋には株主総会のマイク係となり舞台裏で緊張したことを覚えている。 当に労使の垣根を超えた「なんでも屋」として修次郎が活躍する舞台は確実に拡がって行くのであった。 第五章:鵜飼ウエディングと人事へ続く 表題TOPページに戻る 許可無く転写・複製・転記しないようにお願い致します。
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